難題
子供の頃「なんで勉強するの?」という問いを投げかけた人も多いと思う。
「勉強出来んと困るでしょ」とか、
「いい学校に入って、大学に行って、いい仕事につくため」とか。
学校で学んだことは、往々にして現場で直接役立たないことが多いのだが。
更には「立派な大人になるため」という意味不明な回答を聞いたこともある。
何のために勉強をするかどうかは、置いといて、
少なくとも、義務教育あたりだと、勉強するに当たり、問題に対する回答があり、その内容はある程度明快だと思う。
問いに対する答えがはっきりしている。
これが、高校・大学と進むにつれて、答えの幅が広がっていく。
例えば、こんな回答もある。 そんな風に。
ものごとの考え方や捉え方、心で感じることなど、ひとつに決められるはずはない。
昨日「ほこ・たて」で富士山対決があり、静岡と山梨がベストな写真を撮って1枚ずつ対決していたが、とても滑稽な対決だと思った。
どっちがいいという観点が曖昧で、自分が思うのとは大きくずれていたからだ。
美術・芸術的な観点から専門家が判断しているから、ずれているのは自分の方だと思うが、説明を聞いてもわからないものも多かった。
さて、これが社会に出ると、更に答え自体が無いものが多い。
敢えて言えば、強いモノ・権力のあるものが白といえば白が答えになったりするが、それはそれ。
究極は、難題そのものが人生そのものなのかもしれない。
その難題を息子からもらう。
嫁と共に難題に向き合うが、納得できる回答は見つからない。
我々の中に答えが無いからだろうか?
腹決めできない自分たちが問題なんだろうか。
あ~でもない、こ~でもないと、グルグルまわる。
子供が大きくなるというのは、ただ単に体が大きくなったり、進学してお金がかかったり、直接的な世話がかからなくなると言うのではなく、様々な難題に向き合うことなんだなぁと・・・。
もちろん、今までに自身もたくさん迷惑掛けながら育ててもらった。
答えがない問題は、最後は自分自身で絞り出すしかない。
出した答えが、また正しいのだろうかという迷路に迷い込むだろうが。