sawadake-Blog -Third Stage-

今年の春から、また2人となりました・・・

難題

子供の頃「なんで勉強するの?」という問いを投げかけた人も多いと思う。

「勉強出来んと困るでしょ」とか、

「いい学校に入って、大学に行って、いい仕事につくため」とか。

学校で学んだことは、往々にして現場で直接役立たないことが多いのだが。

更には「立派な大人になるため」という意味不明な回答を聞いたこともある。

 

何のために勉強をするかどうかは、置いといて、

少なくとも、義務教育あたりだと、勉強するに当たり、問題に対する回答があり、その内容はある程度明快だと思う。

問いに対する答えがはっきりしている。 

 

これが、高校・大学と進むにつれて、答えの幅が広がっていく。

例えば、こんな回答もある。 そんな風に。

ものごとの考え方や捉え方、心で感じることなど、ひとつに決められるはずはない。

 

昨日「ほこ・たて」で富士山対決があり、静岡と山梨がベストな写真を撮って1枚ずつ対決していたが、とても滑稽な対決だと思った。

どっちがいいという観点が曖昧で、自分が思うのとは大きくずれていたからだ。

美術・芸術的な観点から専門家が判断しているから、ずれているのは自分の方だと思うが、説明を聞いてもわからないものも多かった。

 

さて、これが社会に出ると、更に答え自体が無いものが多い。

敢えて言えば、強いモノ・権力のあるものが白といえば白が答えになったりするが、それはそれ。

究極は、難題そのものが人生そのものなのかもしれない。

 

その難題を息子からもらう。

嫁と共に難題に向き合うが、納得できる回答は見つからない。

我々の中に答えが無いからだろうか?

腹決めできない自分たちが問題なんだろうか。

あ~でもない、こ~でもないと、グルグルまわる。

 

子供が大きくなるというのは、ただ単に体が大きくなったり、進学してお金がかかったり、直接的な世話がかからなくなると言うのではなく、様々な難題に向き合うことなんだなぁと・・・。

もちろん、今までに自身もたくさん迷惑掛けながら育ててもらった。

答えがない問題は、最後は自分自身で絞り出すしかない。

出した答えが、また正しいのだろうかという迷路に迷い込むだろうが。